旧制府立十一中の質実剛健、文武両道の伝統を受け継ぎ、活躍するわれら江北健児、江北撫子。

沿革 同窓生交歓 あのころ 点描散歩 江北会

思い出の見出し、写真はネットとボール

創立・戦前期

この項は創立五十周年記念誌、六江会記念誌「都趣田情」、六十周年、七十周年記念誌に寄稿したOB・OGの思い出話などから抜粋・転載したものです。


第1回入学式

昭和13年4月10日、旧青山師範学校校舎において第1回入学式が行われ、翌11日から授業が開始された。


青地康雄さん(1回生)の話
「(表)参道の上り下りを体操時間に走った、いや走らされたものである。また外苑にある神宮球場の周りを競歩したりもして身体を鍛えられた。大変辛くて途中で歩いたり、横腹を抑えてたちどまったりしたが、この辺は現代ほどではなくとも人通りもあり、すれ違うとその都度「若い者が」「十一中の生徒ね」とかささやかれるのを気にして若さと気力を発揮して頑張ったものである。」

二瓶孝夫さん(1回生)の話
「当時の青山は現在と異なり閑静な山の手の住宅地という感じでした。原宿駅から青々とした並木のある表参道を通って、青山通りを左に曲がった処にあり、全くのボロの2階建の校舎でしたが、そこにはほのぼのとした温かさがあった様に思います。戦時中なのに制服は背広で、夏には開襟シャツの白襟を上衣の上に出したハイカラなものでした。創立当時は先輩もいず、僅かな先生と生徒の間は全く家庭的でしたが、反面には寒空の校庭で毎日上半身裸になり体操をさせられた厳しさもありました。」


昭和19年ごろの校舎全景

昭和15年4月、足立区五兵衛町940番地(現在地)に移転。


土地提供者大室徳三さんの話
「昭和13年6月ごろ、府立の中学校を持ってきたいと話があり、父源一郎は他の地主さんと相談して3000坪を提供しました。・・よく父が優秀な府立の中学校ゆえこの中より立派な人たちが育つだろう、と口癖のように言っておりました。」(写真は昭和19年ごろの校舎全景と綾瀬川)

二瓶 孝夫さん(1回生)
「田圃の中の足立の校舎に移ってからは、杉並のはずれに住んでいたので、小菅、五反野駅から、時には東武電車が来ぬため、北千住駅よりよく駆け足したのも懐かしい思い出です。恒例であった10キロマラソンとともに負けじ魂を培ってくれたのかもしれません。」


10キロマラソンコース略図

昭和15年11月11日、10キロ競走実施(恒例マラソンの始まり)。


翌昭和16年からは定例行事になり16年度は計6回実施している。19年秋に時局切迫のため途絶えた。戦後復活の声が起こり、まず昭和24年9月、希望参加により実施、31年1月全校生徒に職員、OB有志も加わり、男子10キロ、女子3キロで実施された。昭和39年まで形態を変えて続いたが、交通事情の悪化で中止された。


長谷川守男さん(昭和18年度入学・転校)
「入学当初から、全校生徒による毎月の10キロマラソンと春秋2回の40キロ強歩がありました。当時は、ただ、ただ苦しい思いとなんの益があるのかと馬鹿馬鹿しいとしか思えなかったこの行事によって培われた精神と肉体が、今日の私の支えであったと、今、しみじみ感謝している次第です。」

北島 徳一さん(6回生)
「学校から一寸上流に遡ると五兵衛橋よりやや見映えのする綾瀬新橋がかかっており、毎月恒例の10キロマラソンの時は、この橋を渡って亀有方面へ走って行ったもので、この道だけはあの付近には珍しく幅広く立派に舗装されていた。・・(親友の)後年の医師津田先生は、コース前半の中川堤の桜並木あたりではぶらぶらと散歩を決め込み、その癖、後半の綾瀬川の畔に出たあたり、対岸に(実家の)津田医院が見える頃になるや、やおら颯爽と走りだし、川向こうで声援を送る家族に手を振るという演技を披露することしばしばであった。これは本人が告白しているのだから嘘ではない。」

木村 伸司さん(6回生)
「40キロ強歩は個人戦だからそれなりの成績を自分でそれなりに納得すれば良かったが、10キロ競争は、クラス対抗になっていたのでやりきれなかった。確か優勝額みたいなものがあって、クラス全員のタイムの平均値だかを出して順位を決めたと思うが、しかとしたことは忘れた。そしてその順位に従って、優勝を決め、優勝額にその名を刻字して、次の大会まで教室に掲示しておくのである。たいていA組に持って行かれたような気がする。私のいたE組には益戸君というトップクラスの人がいて、いつも好成績を出すのだが、私みたいな鈍足組が多かったせいか、あまり優勝には縁がなかった。それ故、非常に肩身の狭い思いをしたことは覚えている。」


40キロ強歩コース略図

昭和16年11月14日、第1回40キロ強歩(千住新橋~春日部~岩槻~大宮)


体力増強訓練の一環として全校生徒を対象に実施。昭和17年より春秋の2回実施された。その後、工場動員、食料不足などのため19年秋に中止。戦後もコースを変えてクラス単位でしばしば実施されている。


石垣義道さん(旧職員)
「朝、千住の荒川堤防から草加・越谷・岩槻・大宮公園と、途中休まずに数人の生徒と昼食も歩きながら食べ、5時間台で到着した時の快感は今でも忘れられません。4時間台で完走した生徒たちもいたようです。・・翌日、学校の階段の上り下りのなんとつらかったこと、しかし校庭で相撲を取っている生徒たちを見て敬服し、驚きました。10キロマラソンとともに、戦中戦後を乗り切る気力を養うのに役立ったものと思います。」

杉江 大さん(2回生)の話
「・・草鞋2足履きつぶして頑張りましたね。あれははだか体操、10キロマラソンとともにわれわれを大いに鍛えてくれましたね。今の2時間何分という記録にはほど遠いのですが、千二百人が千住新橋を出発して私は大宮の氷川神社に8番で入りました。今でもその賞状を持っています。」

天野健一さん(5回生)
「踏切を渡るとき、おばさんの警手にいちばん先頭はどのくらい前に来たかと聞いたら3時間半前に通ったというんで、こりゃだめだというんで、ラムネ飲んで寝てしまった。大宮に着いたらみんな机を片付けちゃってるんです。6時間ぐらいかかりました。エライ目にあいました。」

木村 伸司さん(6回生)
「(旧制)中学生と言っても小学校を卒業して間もない、まだ頑是ない子供です。顔には乳臭さが残っていそうな子供。その子供がたいした落伍者も出さず、40キロを走り(もしくは歩きか)切るのだから、たいへんなものだ。今の子供にやれと言っても絶対にやらないだろう。第一、親がやらせないと思う。」


綾瀬駅開業告示

昭和18年4月1日、綾瀬駅開業。


土地提供者大室徳三さんの話
「学校側は私の父との約束を果たすために、後援会長や教頭の小倉先生(後の両国高校長)とが中心となって死にもの狂いで駅の新設運動を起こし、遂に昭和18年4月1日、綾瀬駅が現在より200メートル綾瀬川寄りに開設されました。しかし、ホームは鉄道の枕木で、田舎のどこに行っても見当たらないようなあわれな駅でしたが、私たちにとっては実に嬉しく、何より便利になりました。」

小倉 隆さん(初代教頭)
「校地の予定地が3か所内定したので大森先生と数回現地を巡回視察し、比較検討した結果、常磐線に新駅が特設されれば五兵衛町の現在地が将来性が多く良いと確定報告した。直ちに新駅設置の猛運動を開始することにした。東京鉄道局からは、北千住亀有間では既に3か所請願が出ているから1か所に話し合いが妥結すれば考えてみようと申し渡された。そこで、これに対する策を練って半年余にして幸い了解ができた。この中には既に数年前から敷地を用意し、駅建設用地と立て札まで建て運動中のところもあり、なかなか難航したものがあったが、教育のため名利を捨て応諾してくれたのであった。用地と臨時駅建築の予算6万円の寄付条件は父兄会で3万5千円を、吉田四郎平氏が中心となった地元が用地3百坪と2万5千円を募金することにして当局の許可を得て早速着手した。」

杉江 大さん(2回生)の話
「江北は地の利が悪い、上野高校にいい生徒を持っていかれてしまうというので、常磐線に駅を作ろうということになり、教頭の小倉先生が文部省その他に日参されたということから駅名は「小倉」はどうかという話もありましたが、「私の名前が将来残るのはまずい」と言われたとかで地名の「綾瀬」になったと聞いています。とたんに買出しの駅になりまして、私も学校の帰りにキュウリ、ナス、トマトなどを買って帰りました。その前までは東武線の伊勢崎行きの特急を江北の生徒のために五反野で8時13分だったかに特別停車させていたんですね。」

北島 徳一さん(6回生)の話
「乗降客の大半は江北の生徒で、学校と国鉄との約束事で、電車を降りた生徒達は学年の如何を問わず適当な人数にまとまって二列縦隊をつくり、その中の上級生の指揮で学校に向かう。農道を一寸行ったところで綾瀬河畔に出、上流に向かって暫くすると幅数メートルの五兵衛橋にぶつかる。」


英語授業風景

昭和19年、勤労動員により工場などへ動員されるが英語授業は続行。


今井 道彦さん(6回生)
「わが十一中では、戦争中でも一貫して英語の授業は続けられていた。確かに授業時間は減ったり、勤労動員で授業がなくなったことはあった。英語は敵性語として野球のストライクが「よし」に、水泳のクロールが「速や泳ぎ」、テニスのプレイボールが「用意」に改められた時代だった。そんな中で英語教育を続けるには、教える方も並大抵の覚悟ではなかったろう。時代の波に弄ばれたわれわれだが、こと英語教育に関しては、時代の流れに抗してその授業を守り抜いた先生たちに、感謝してもしきれない。」

堀内 淳一さん(6回生)
「福井先生は後に英語教師として最高の名誉であるパーマー賞を受賞されるが、戦時中は多くの学校で英語の授業が削除されたのに、敵を知るのには敵の言語を理解しなければならぬと一歩も引かなかった福井先生(英語科の主任でもあった)の勇気と情熱から考えて当然の帰結と思う。戦後、我々のクラスを率いて東大の講堂で、模範的な英語教育として全国の教師の前で公開授業が行われたが、これは戦時中でも実行された、日本語を使わない生きた英語の授業であり、当時としては画期的なものだった。」


昭和20年8月15日、終戦。9月より授業再開。教師、生徒つぎつぎと復校。


天野 健一さん(5回生)の手記(当時中学4年生=現在の高校1年生に相当)
「あゝ此の日昭和20年8月15日、晴天の霹靂とも云ふべき哉、我等日本民族にとって忘れよとも忘れる事の出来ない日である。先の米英ソ支の共同宣言たる「ポツダム共同宣言」を受諾するの止むなきに至った。又何と云ふ事だ。如何に我等最后の一人となるとも断じて此の戦に勝つ可き努力は續けられて来たのだ。しかし、敵米国は有史以来の始めて残虐爆弾たるウラニウム原子爆弾を用ひ、十数万の人民を殺傷した此の暴擧、国際法規を無視し日本よりの抗議文提案にもかゝはらず又もや長崎に知って知らぬふりして新型爆弾を用ひた。之にともなひ突如ソ聯に於いても不法にも卑怯にも日本に宣戦を布告した。之によって日本の今後の執る可き方針は政治上軍事上にも一変したのだ。何たる哉。此の状態。20年8月15日。」

木村 伸司さん(6回生)
「昭和20年8月15日、終戦の時が来て学園に戻った。最初はたがが外れた桶のように、てんでんばらばらで、まとまりがなく混乱も非常なものだった。しかし、復旧も割合早く、疎開先から帰ってくるひと、他校から転入して来るものなどが加わって、年末近くには平常の授業が出来たと思っている。社会の混乱は学園生活よりひどいもので、われわれの受験時ぐらいまで続いていた。」