旧制府立十一中の質実剛健、文武両道の伝統を受け継ぎ、活躍するわれら江北健児、江北撫子。

沿革 同窓生交歓 あのころ 点描散歩 江北会

見出し 点描散歩、写真は南からみた校舎と格技場

点描散歩

学校周辺の「名所旧跡」をご案内します。



綾瀬駅

昔の綾瀬駅

明治29年に開通した常磐線は北千住亀有間に駅がなく、綾瀬駅ができたのは開通から47年後の昭和18年(1943)です。これは母校府立十一中(江北中學)の小倉教頭先生らが鉄道省へ287回もの度重なる陳情の成果と言われています。

戦時下であり古い枕木を並べた簡単なホームでしたが生徒はもちろん地元住民も大いに喜んだそうです。駅名は教頭先生の名をとって小倉駅という話しもありましたがご本人が辞退をしたそうです。写真は当時の江北中學校の生徒たちが駅に入る風景です。


長く地上駅でしたが、昭和46年(1971)、地下鉄千代田線の乗り入れに伴う改良工事により高架になるとともに東へ200m移動しました。母校は遠くになりにけり、です。小倉教頭先生が居合わせたらどうしたでしょうか。

移転改築されましたが駅前広場がないために高架下にバスターミナルを設けるなど工夫しており、朝夕のにぎわいは目を見張ります。



新撰組

昔の金子左内家

慶応4年(1868)の戊辰戦争のさなか、旧暦3月14日夜、新撰組(甲陽鎮撫隊)の40人ほどが金子家の分家、金子左内家(綾瀬4丁目・五兵衛橋そば)を頼って逗留しました。その後人数は増えて227人を数えたと記録にあります。そのため一軒では泊め切れず金子左内家のほか近隣の住宅や観音寺に分宿したそうです。写真は昔の金子左内家で、屋敷地三千坪、建坪140坪ありました。

この人たちのなかには大久保大和と名乗っていた近藤勇もいました。新撰組の存在を知った官軍側が彦根藩兵など三千人を小菅の籾蔵に集結させ、それを察知した新撰組は4月1日の夜、流山に立ち去りました。しかし4月3日、流山で官軍に包囲され捕縛された近藤勇は板橋宿へ送られ打ち首となっています。3週間足らずの五兵衛新田での暮らしはどうだったでしょうか。同志を集め次の戦の準備をしていたようですが、副長の土方歳三は綾瀬川で釣りをしていたとの話も伝えられています。

旧暦の3月中旬は今の4月ごろになります。若草が萌える五兵衛橋あたりの土手に腰をおろし、戦塵の疲れをいやしていたのでしょう。対岸は田植え前の春浅き田園が広がっており、70有余年後にはその土手を十一中生徒が学校へ通うことになるのですが、そんな未来を知らずに、土方歳三は義を貫いて、さらに宇都宮、会津、箱館(函館)へと奮戦していくのです。



五兵衛橋

今の五兵衛橋

五兵衛橋の名は、この辺を開拓した金子五兵衛さんに由来しています。江戸時代の初め、金子五兵衛さんは他の方と一緒に武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から転入して開拓し、一帯はその名をとって五兵衛新田村となりました。寛永年間(1624~1644)に綾瀬川が内匠橋から伊藤谷橋あたりまで新川として開削されたため村は東西に分断されましたので、代償として長さ12間、幅9尺の土橋が幕府によって設置されました。これが五兵衛橋です。

橋は何度か架け替えられていますが昭和15年に十一中が移転してきたときはその2年前の昭和13年に改修された橋です。十一中生(江北生)は長くその橋を利用してきましたが、護岸が高くなったため昭和47年、橋に陸閘(溢水防止柵)を付けられています。昭和61年(1986)、南に「五兵衛新橋」ができた際には地元の陳情により残りましたが、平成10年(1998)、ついに架け替えられました。高くなった堤防をまたぐ形ですので、外観は歩道橋のようです。

昔の五兵衛橋

昔の五兵衛橋のおもかげは、渥美清さんの「男はつらいよ」第26作「寅次郎かもめ歌」で見ることができます。ヒロイン役の伊藤蘭さんが入学する学校は架空の葛飾高校ですが、途中で渡る橋が五兵衛橋です。この映画は昭和55年の作品です。橋から川面が近く、上空には高速道路はなく(高速三郷線は昭和60年開通)、さくら役の倍賞千恵子さんが電話をかける店先の幟には江北通りとあります。橋の名前はかろうじて五兵衛橋と読めます。寅さんの背後には江北高の正面2連の階段塔が見えます。

写真は橋が写っている映画の一場面です。校舎や運動場の場面もありますが、それはよその学校の風景で、どうも都立南葛飾高校で撮影したようです。昔の五兵衛橋に思い出のある方はDVDを購入するか借りていただいて懐かしんでください。



旧称江北通り・十一中池

五反野駅

府立十一中學校は昭和15年に青山から移転してきましたが、まだ綾瀬駅がなかったため、生徒の多くは北千住駅から歩くか、東武電車に乗って小菅駅か五反野駅を利用していたそうです。

当時、五反野駅から学校まで3軒の家しかなく、3人並んで歩けるかどうかの狭い道に沿って農業用水路の河内堀が流れていました。昭和30年(1955)、河内堀がコンクリート化されましたが、柵もなくたびたび通行人が落ちたそうです。道は昭和40年(1965)になって舗装され、河内堀も昭和50年(1975)に暗渠となり歩道として活用されています。写真は五反野駅から旧江北通りを撮影しています。久しぶりに来て見ると、道幅がせまい!と感じるでしょうか。


道沿いの学校の近く(現弘道2丁目)に十一中池がありました。学校を建設する際、近くの田の土で盛り土したのですが、その掘り上げられた場所は大きな池になり、以来十一中池と呼ばれていたそうです。ここで水遊びしたことがあるとおっしゃるOB・OGもいます。周囲は草が生えていましたが、水はきれいで澄んでいたそうです。泳ぐため水の中に入ると、土を掘り上げた構造上いきなり深くなっていたと10回生の女生徒が思い出してくれました。その後、昭和40年代に埋め立てられ駐車場として使用されていました。その後墓地造成の動きがありましたが、平成25年夏現在、区画されて分譲宅地として売りだされています。


この道は我が母校名から長く「江北通り」と言われていましたが、商店街振興のためとして「五反野ふれあい通り」と名を変えています。OBとしては寂しい気がします。



弘道小学校

綾瀬村役場跡の碑

弘道小学校は江北高校の南方にある、明治11年(1878)創立の歴史のある小学校です。当初は現在の綾瀬4丁目1番の綾瀬川左岸の常磐線線路際にあったとのことですが、大正15年(1925)に現在地に移転しました。校名は論語衛需公篇の「子日人能弘道非道弘人」からとされていますが、近くを水戸街道が通っており、水戸藩の藩校「弘道館」を意識したとも言われています。


府立十一中を誘致するとき地主さんたちは綾瀬川の西(右岸)は文教地区にしようという気持ちがあったといわれ、弘道小学校の北の場所を提示したと伝えられています。


弘道小学校の南、ボランティアセンターの玄関横に綾瀬村役場跡の碑があります。綾瀬村は明治22年から昭和7年まで存在した自治体で、その後東京市足立区に吸収されます。



下山総裁追悼碑

下山総裁追悼碑

昭和24年(1949)7月5日、下山国鉄(現JR)総裁が自宅から国鉄本庁へ向かう途中、日本橋三越から行方不明になり、翌6日未明、東武線と常磐線が交差する地点から綾瀬駅方向50mの常磐線線路上で轢断死体で発見された事件がありました。ちょうど国鉄職員3万人の解雇通知を発送したばかりであり、自殺、他殺説で捜査は迷走し、不明のまま終息しています。この時期は国鉄に関係した三鷹事件、松川事件があった世情不穏な時期でもありました。

作家松本清張は「日本の黒い霧」のなかでこの事件を取り上げ、また松竹映画「日本の熱い日々-謀殺下山事件」(昭和56年・1981)で仲代達矢が新聞記者役で熱演しています。


下山総裁追悼碑は、初め常磐線の下り線路わきにありましたが、地下鉄千代田線の工事などで移転し、現在は高架線路下の五反野親水緑道脇にあります。



東京拘置所

東京拘置所

常磐線や東武線の車窓から見える著名な施設です。南側校舎3階あたりからも都営住宅の間に小さく見えます。最近は、その向こうに東京スカイツリーもみえるようになりました。行政区画上は葛飾区の飛び地のような場所になります。


荒川(放水路)が開削される前の小菅の地は千住宿と地続きで、水戸街道脇にあり、江戸時代は関東郡代伊奈氏の下屋敷が置かれました。将軍の鷹狩りの休憩所に使われたことから小菅御殿とも言われ、伊奈氏が失脚した後は籾蔵(今の災害備蓄倉庫ですね。)がありました。明治維新を迎えると、ここを県庁とする小菅県が設置されましたが、小菅県は2年後に東京府に吸収されています。

その後、明治5年小菅煉瓦製造所、明治10年小菅監獄署、大正11年小菅刑務所、昭和46年東京拘置所になりました。

老朽化に伴い、最近全面的に改築され、地上12階建ての高層ビルに変貌しています。周囲の背の高いコンクリート塀も撤去されて外観は一新されました。昔のものは中央監視塔だけになりました。

写真は千住新橋から荒川土手越しの東京拘置所で、手前は高速道路中央環状線です。

司法関係者以外の方でも、有名人が収監されるとテレビで報道されますので出入り口だけはご存じでしょうね。